白切りドライバー【タイ最終日②】

タイ/バンコク →前回の記事はこちら

 デパートの明るい喧騒の中でさえ、外で激しく降りしきる雨音ははっきりと聞こえ、夜の街をのみこむようであった。私たちは、カイがまだタイに来てから食べたことがないと言うトムヤムクンスープを、最後の晩餐にとちびちび食べているところであった。デパートにあるフードコートで屋台風の店が出すトムヤムクンは、昨夜食べたカップヌードルの味にほど近く、なんとも言えなかった。

 「ほんならそろそろ行きますか」食べ終えた私たちは両手に今にもはちきれそうな袋をぶら下げ、パラゴンを後にした。
 雨脚は弱まる様子もなく、大きな屋根の下であっても細かい水しぶきが飛来しては、肌を濡らした。
 荷物を預けてあるホテルまで歩いていけないこともなかったが、ここバンコクにやって来てから、歩くという選択肢が思考から排除された状況を維持し続けてきた私は迷わずタクシーを使った。どうせならホテル経由で自分の宿に帰れるようにと、カイにも一緒に乗ってもらった。

 この雨と夕方の渋滞とで空車のタクシーは少なかったが、なんとか捕まえたピンク色のタクシーに乗り、行き先を説明した。通常70バーツほどで行けるところを200バーツだと要求され、乗るのを躊躇するも、まあこの交通状況なら仕方ないし、早く帰りたいので妥協した。

 私たちはタクシーに乗るといつも、助手席の前に掲げてある運転手の証明書のようなものを見て、運転手にそこに書かれた名前を聞いてみるという戯れに興じていた。
 そうして「○○さん?」と聞くとたいてい、「違うよ」と返答が返ってくる。今回もその例に漏れず、「それは弟だ」と運転手は言っていた。兄弟や家族、友人でタクシーを使いまわしているのだ。車体には休む間もない。
 案の定車はなかなか進まず、車内には打ち付ける雨の音に、前方には偽ドライバー、隣にはサルがいるというよくわからない状況だった。その間話した内容は皆目覚えていない。どうせカンボジアで繰り広げた猥談について、猥談をもってして妄想を膨らませていただけに違いない。
 「男は猥談だけで話が弾む」「男は猥談だけで仲良くなれる」
 猥談万歳!



 そうこうしているうちにタクシーはホテルのエントランス前に到着する。私たちは名残惜しみつつ、全くもって勇ましい活躍などはしていないが、互いの勇姿を讃え合った。その勇姿を思い出に刻み込もうと車を一時降り、写真を撮ったりと悠長なことをしているその時であった。

 再びカイがタクシーに乗ろうと座席を振り返ると、シートに置いてあった彼のiPhoneが忽然と姿を消していた。もちろん私は彼がわざと置きっ放しにしていたことをこの目で見ていたため、そこからなくなることはありえないのだ。
 人を疑うために生まれてきたと言っても過言ではない私は、真っ先に運転手に詰め寄り、「ここに置いてあったiPhone知らない?」と問いかける。
 すると運転手はきょとんと驚いてみせ、「iPhone?俺はアンドロイドだぞ?」と小汚い笑みをこぼし、あからさまなとぼけ方をする。
 「iPhoneとっただろうお前!」と私たちは取り乱す。
 「知らない知らない」運転手は後ろの席に手が届かないふりをする。
 何を言っても埒があかないので、一度エンジンを止めさせ、運転手を車から引きずり降ろす。エントランス前にいたホテルの警備員や従業員を呼び寄せ、この運転手がiPhoneを盗んだかもしれないことを伝え、大捜査に発展する。

 車内の座席やカバー、カーペットなどめくれるものは全てめくり、開けられるものは全て開け、まさに車体をひっくり返すかのように一台のスマートフォンを探す。時には開けてはならないようなカバーをバリッと音を立てて引き剥がしたこともあった。運転手のボディチェックもした。どうやら車内にはないようだ。
 警備員たちが「電話をかけてみろ」というので、番号にかけてみる。ところが呼び出し音が鳴ることもなく、ツーツーっという音が鳴る。国際電話の設定に問題があるのだろうか、なぜか繋がらない。もちろん私にしかWi-Fi接続がないため、LINEは使えない。
 どうしても見つからない。

 「頼むから返してくれよ。」



 旅先でのスマートフォンは必需品である。情報入手や連絡手段としての機能はもちろん、それを失うということはYouTubeを視聴できないということを意味していた。連日カイのバンコク生活を支えたYouTubeの喪失、そんな明日以降の彼の乾いた生活を想像すると、背筋が凍るようであった。
 私は「彼のYouTube生活を守りたい。」そんな思いに駆られ、半ば諦めかけていたカイを励まし、最後まで諦めずに探し続けた。

 スタッフもいよいよめんどくさそうな雰囲気を醸し、運転手も早く帰してくれと喚きだし、いよいよ事態が詰んだかに思われたその時、カイの渾身の一撃が火を吹いた。一心不乱に車内のあらゆる部分を弄り倒していた彼がたまたま開いたサンバイザーに、なんとiPhoneがくっついてた。
 「あった!あったあった!!」
 「ほんまやぁぁあ!!やっぱりこいつやないかい!!」私は運転手に掴みかかった。
 「嘘つくなやぼけぇっ!」
 それでもなお「お、あったのか。もういいだろ、タクシー代をよこせ」とのたまう運転手に怒髪天をついた私たちは、危うく殴りかかるところであったが、ニュースで「日本人男性がタイ人運転手に殴る蹴るなどの暴行を加え、目撃した警備員に取り押さえられました」などという報道を自国民に晒すわけにもいかず、わけもわからず胸ぐらを掴み相手をぐにゃぐにゃと揺らした。
 頭に血が上った私たちは、興奮を抑えることができず、ネコ科の動物のようにふるふると鼻息を荒立てていた。

 ふと我にかえると、サンバイザーにiPhoneがくっつくという現象に違和感を覚えた。くっついていたのはサンバイザーに磁石が仕込まれていたことによるものであった。電話がかからなかったのも、電源を切られていたことが理由であった。
 常習犯であった。
 思えば弟のタクシーを乗り回し、なおかつ過剰運賃を請求するような輩である。
 冷静になった私は「警察呼ぶか、タダにするかどっちがええんや」と説き伏せ、事態は収束した。



 旅の最終日のクライマックスにこんなに興奮することになるとは思わなかった。しかしながらこれでYouTube生活を守り通すことができたのだから結果オーライである。

 別れ際、今度こそ正真正銘の武勇を讃え合った私たちは、その勇姿をカメラに納め、別のタクシーを探した。

 一連の騒動を見ていた地元民が、「あんなやつ思いっきり殴っちまえよ!」と言った。
 「殴っちまえばよかった」と後悔とともに拳に力が入ったが、すぐにどうでもよくなり、力が抜けた。

 かくして私の東南アジアでの旅は終焉を迎えたのであった。

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